
きのう胡桃を575個拾ってついに総獲得数が10000個を超えた。
友人Aに「売ったらどう?」と言われてぞっとした。売って五千円とか1万円とかを手にしている場面を想像して寒くなった。
それに野生の胡桃は売り物にならないだろう。形は不揃いだし中身は破片状だ。先日、杉本さんちでアメリカからの輸入ものの胡桃を食べていて形が完璧なことに驚いた。商品は形が完璧で美しいことが要求される。砕けていたら商品にならない。
胡桃を商品にする場合、徹底した管理下で行われるだろう。施肥、虫の駆除等栽培は計算され、中身を取り出す機械の技術も要求される。そうでないときれいな胡桃が口に至らないだろう。
つまりお金を得るというのは厳然とした管理体勢の中に取り込まれること。定年してその世界から去ってまたその世界に舞い戻るなど御免こうむりたい。
お金という数は今の自分にそぐわない。
むかし、大学生のとき、その寮にいて、春休み、夏休み、冬休みも故郷へ帰らず金を稼いでいたことがある。寮に住む費用を捻出するためであったが、通帳に金の額が増えていくのに心が躍った。
貯めた金は寮のへの支払いで一気になくなったが、守銭奴の気持ちがよくわかった。通帳の数字が増えていくことのみに喜びを感じる人がいるのは理解できる。増えてゆく数字を見るのが嬉しいのであり、その金でもって何かを買うという欲求を拒否する。物に対しては禁欲であるが金という数字に対しては貪婪である。
政治の世界をみていると、何千万、何億という金がおおやけにできないところで動いているようだ。とにかくべらぼうに金が必要なのだろう。つまり勢力や権勢を得るための金であり、政治家に守銭奴のように通帳を開いてうっとりしている時間はないだろう。
金に関しては政治家より守銭奴のほうが楽しいと思う。
ぼくは守銭奴とも政治家とも違うし商人でもなく、胡桃を拾う。食うためである。1万個拾ったがいまいくつあるかは知らない。
洗浄して、干して、割って食べているから拾うはしから減っている。
コインや切手やライターやらとにかく集める収集家という人種がいる。彼らは集めたものが減ることを絶対嫌がるだろう。集めた数が誇りであろう。それは理解できる。
ぼくは数を数えて胡桃集めることに興奮するが、一方、それを食べて減らしていくことも喜ぶ。
ぼくにとって胡桃はお金を得ることとは対極にある特別な世界なのである。
写真:多摩川のアレチウリ